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2009年7月 5日 (日)

DVD「7月4日に生まれて」

ふとGEOで手に取った

この映画に関しては予備知識は少しあったが

じっくり鑑賞していなかったため購入した

純粋に戦争といった状況に人生を翻弄されて生きる人生というものについて

リアルに伝わってきた

自分たちの日常些細な悩み、人生の挫折など何を甘えているのかと

自分への戒めとなった

それと同時に 天国と地獄について考えた

どちらも単独では存在できないものなのだなと感じる

冬に気温が下がって 寒さという地獄

しかし暖房に当たるという極楽

寒さという地獄が最初から存在しなければ

暖房の在り難さは何の意味も持たない

生まれてから苦しいことばかりだと その人にとってはその環境は地獄ではなく普通な環境なのだ

楽しいことばかり続いている人生を歩んでいる人には

又一ついいことがあっても それについて正直嬉しいと思わないだろう

要は この映画の主人公は戦争によって身体障害者になりながらも

多くの葛藤や自暴自棄を経て

価値観の勉強をしていく

映画のラストで彼は著名人としての地位を手に入れ

彼の反戦の訴えに多くの聴衆が沸き立つというハッピーエンド

話は変わる

僕の母の兄 伯父だが生まれたときからの全盲の視力障害者です

伯父はものを見たという記憶が全くありません

彼は、目が見えないことは不便と感じるが

不幸だとか 苦しいと思ったり言ったことは一度も無い

彼はマッサージの仕事を大分前に高齢ゆえ引退したが

今は仲間を作って人生をエンジョイしている

彼は限られた職種に就きながらも一生を通じてある程度莫大な資産を築いた

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映画・テレビ」カテゴリの記事

コメント

どちらかと言うと、戦争をテーマにした映画は 避けてきました。

「夕凪の街 桜の国」も。漫画も文庫も読んだのですがその時点で涙でぐしゃぐしゃになり。
「観に行こうかどうしょうか・・」と迷う内に上映が終わり。
dvdになっても、なかなか借りる事が、出来ませんでした。
 
母方の伯父が、陸軍病院で事務を執っていて。昭和20年8月6日以降、叔父は帰って来ないままです。
母の実家では叔父が唯一の男手。爺ちゃんはもう工廠も止め 畑を耕していました。
(母はひかりの理事の「地理久保さん」と高校の同期です)
泣く泣く進学を諦め、銀行に勤めました。

「夕凪の街・・」は、銭湯でのシーンにお客さん達の“体に残るケロイド”が映される
そのほかでは、目を覆いたい場面はありませんでした。
だからこそ却って、あの日 の広島の街を 想像する。
叔父は一体、どこで どんな風な最期を迎えさせられたのか。
だれも 知りません。

爺ちゃんと婆ちゃんは翌7日に、伯父を探しに「広島」に行きました。
入市被爆者です。
母は 祖父と祖母から その日の事を話して貰った事がない、と言っていました。
ただ、「この世に地獄があるとしたら、あのことじゃ。あれじゃあ、伍(「あつむ」と読みます)は 生きとりゃあせん。」とため息をつく様に言ったのだけ 覚えているそうです。

原爆が落とされていなかったら 母は他の家に嫁げていたかも知れない。
もっと幸せな人生を 送っていたかも知れない。
当然私はこの世に生れない事になりますがそれでも、母が今の家に嫁ぐより幸せであれたなら その方がいい。
と言うと、宮さまに「共依存よー。」て言われますが・・・。

不幸を経験していない者には、幸福も幸福と感じられない。
その通りだと思います。
「こんな筈じゃなかった!!」母に盾突いていた時必ず、私はそう言っていました。
でも。本当に「こんな筈じゃなかった」と心底言いたかったのは母の方だった、と後になって分かりました。

気の持ちよう。
そうだよなぁ。

投稿: たますけ | 2009年7月 7日 (火) 18時37分

たますけ さんから伺う意見は凄くいろいろな思惑、考える材料を提起させてくれます
広島に住んでいながら、祖父母を含め僕の家族は戦争というものを追い風として受けてはいても直接試練として受けては居ませんでした。
母方の祖父は海軍の少佐で、戦争中は豊富な軍事物資配給や社会的立場ゆえ、むしろ戦争で恩恵を受け、さんざん贅沢をした上、家を二件建ちました。
うちの母はお嬢様として育ちました、戦争中、祖父を対象としたほうぼうからの言葉「軍人さんを見たら頭が下がります」といった社会立場、実際祖父は出征せず、地位があった為内陸勤務で海軍の兵器管理の責任者といった立場で戦死の危険すらなかったのです、うちの祖父の印が無いと一切兵器の移動は承認されなかった状況でした。
母はまず結婚に失敗しました、うちの祖父の社会的立場ゆえ広島銀行の頭取の家との縁組をしました、一流同士の家柄の縁組
しかしその相手がお坊ちゃん育ちゆえ、真面目に働かず素行が悪く問題をおこしては親に尻拭いさせていました。
母は十代後半でそんな夫に愛想をつかして離婚しました。
それから母は青春を謳歌した上かなり後に僕の父と恋愛で知り合いました
父は実家の貧困状況を除けば、それ以外はすべてに恵まれている人でした、お金が無いから防衛大学二期生としての立場を選ばざるを得なかった、母と知り合ったのは江田島の術科学校勤務で呉に遊びに来てて母と知り合いしました。
でも背は高いものの細身で身体が弱く喘息の発作を抱えていて海上自衛官として将来の出世は約束されていたものの自衛隊勤務は身体に負担をかけ、僕が生後9ヶ月の頃自衛隊病院で医療ミスも影響して死んでしまいました。
母の人生は、好材料が巡ってくるものの母は苦労の連続でした
こうだったら幸福になれた、そういった考え方は僕の母を見ていてあまり関係ないと思います
ただ、人生で自由を選択できるのは至福の幸福です
そういう意味状況が自由を奪ったという たますけ さんのお母さんの人生は大変だったろうと思います
たますけ さんもお母さんの教育の影響で自由が与えられなかったのも大変なことだっただろうと思いました。
僕の意見は、後で親を責める結果になるなら親の言うことをきかないのがベストな人生ではと思います。
僕は人生成功している部類ではないですけど、自由だけは与えられてきました、特に精神面、特に価値観の面自由にのびのびやらしてくれた影響を受けていると思います。
僕は小学校の頃から極度に成績が悪く、その上放置された状態で学問にますます縁遠くなってしまいました
ただ自然と学習する価値について自分で発見しました
いま何か勉強をする分野があるならどんどんやりたい意欲もあります。
自分の人生について、周りが余りにも無責任だったと感じないことも無いのですが、僕自身についてはまだ残された人生について意欲の面でエネルギーが残っている感じです

投稿: hideakifuji | 2009年7月 8日 (水) 12時23分

母の幼少期に関して言うと・・戦時中の餓えを知らない、という点では共通したものがあります。
母の実家は、(半強制的に)海軍の指定下宿にさせられていて。
だから、食料に困る事はなかった と聞いています。

兵隊さんたちから「あーちゃん」と可愛がられていたそうで。
小学校4,5年時に敗戦を迎えた という年齢なので。
出征してゆく兵隊さんを見送る時いつも泣いていた祖母に「何で泣くん?」と、問うていたそうです。

「もっと幸せになっていたんじゃないか?」
それはもう 言ってもせん無き事です。
どこの家にだって、嫁姑のいざこざはつきものだし。
と頭では思うけど、なかなか・・・です。


投稿: たますけ | 2009年7月 8日 (水) 12時58分

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